学びとるラボ

なぜ今well-beingか(4):マズローの想いと現代

東京工科大学 名誉教授、日本創造学会 評議員
奥 正廣

 前回「なぜ今well-beingか(3)」では、マズローの欲求階層説が誤った形で世間に流布していることを、その経緯も含め説明した。彼の考えでは、自己実現者はピーク経験を経て自己超越に向かう傾向があり、それは世界観の質的転換を伴うものであった。ところが、マズローの最晩年にはさらなる思想の転換があった。今回は、彼のその最晩年の境地と現代から見たマズローの影響を振り返る。

ピーク経験からプラトー経験へ、そして実存のパラドックスを超えて

マズローの晩年の思想の最近の研究では、死の2年足らず前の臨死的心臓発作以後の最晩年の間に考え方が大きく変わったようだ。最晩年の残された時間と体力の制約もあり、当時の思考の断片は発言の記録や日記等に残されただけだった。その資料を読み込み、関連先行研究を踏まえたGruel(2015)[1]は次のように記している。

 1970年6月8日、齢62の卓越したキャリアの真っ只中で、マズローは静かに倒れ、心臓発作から死んだ。約19ヶ月前に、彼は臨死的な心臓発作を経験していた。2つの心臓発作の間の期間は、彼の価値および意識の重要な転換によって印された。それは、ある独特な超越の経験で、彼はプラトー(plateau)経験と呼ぶようになった。それは、彼がそれでとてもよく知られるようになっていたピーク経験からの後退を意味する名前であった。
 死に直面する中で、彼の人生に対する態度は変化し、自己実現と自己超越、そしてそれらの関係についての彼の以前の考えを修正し、拡大することを促した。プラトー経験以前、マズローは「アイデンティティ、自律性、または自己らしさの最も大きい達成はそれ自体、自己らしさを越えてその上に行くこと」であると述べていた。彼のプラトー経験は、人生の最後の日々に哲学的理解を目指したこの究極の実存的パラドックスの、より深く具体化された理解を提供したようである。彼の探究は彼の死の時に未完のままであったが、・・・
(p.44) 

 彼は、(死まで2か月足らず前の)1970年4月17日の心理学系のある学際会議で次のように語ったらしい。

 何か他のことが起こった[…]それは私の意識に入ってきた[…]それは非常に貴重なものである。啓示、洞察、および非常に重要であった他の人生経験―悲劇的な経験も含まれる―の沈殿物または降下物と呼ばれるかもしれないものから、一種の降下が生じた。その結果、統合的な意識のようなものが生まれた……神聖なものと普通のもの、あるいは奇跡的なものと普通のもの、あるいは奇跡的なものと一定のものや努力なしの容易なものごと、の同時認識である。私は今、永遠の視座の下で知覚し、神話的、詩的、そして普通のものについて象徴的になる…人は常に奇跡の世界に住んでいるのだ。それは奇跡的でありながら、自律神経のバーストを生成しないので、パラドックスがある。意識のこのタイプは、ピーク経験―畏怖、謎、驚き、審美的なショック―と共通の特定の要素を持っている…しかし、クライマックスではなく、一定である…私がこの種の経験を説明するために使うとすればその言葉は” high plateau(高い台地・高原)”であろう。  (pp.47-8)

 Gruel(2015)は、さらに先行研究を踏まえ、マズローはプラトー(plateau)経験を次のように考えていたと言う。

 さらに彼は、ピーク経験の不随意性とは対照的なプラトー経験の自発性、ピーク経験の迅速なクライマックス的なオルガズム的性質とは対照的な長く続く心の静謐さ、ピーク経験の情動的な強さとは対照的な本質的に認知的な性質、急性の神秘的な体験とは対照的なより平凡な永続性など、ピーク経験とのさらなる対比を提示している。彼は、ピーク経験が産み出す混乱からの自然な老化プロセス、すなわち「体を守る自然の方法」に関連させて、ピーク経験からプラトー経験への転換を直観した。
 マズローはまた、個人的な観察から得られた複数の例とともに、プラトー経験の明確な諸特徴を提示した。それらの例には、時間と空間の「正常な」超越、人の死すべき運命への直面と認識・評価、二重性の単一性への統合、人間における永続性と無常性の共存という逆説的な本性の把握、および「何が基本的で何が基本的でないか、何が重要で何が重要でないか」についての人生観の変化、を含んでいた。マズローは、これらのことは世界の多くの文献で記述されていて、秘教的とか神秘的と見なされるべきではないと指摘している。
 ハイツマン(2003)の、マズローの死に直面した生活――最後の2回の心臓発作の間の期間――の集中的で綿密な心理伝記的事例研究は、プラトー経験の概念が、彼が自我(the ego)の超越を伴うと理解したプロセスである、自身の死の恐怖に対するマズローの哲学的思索の結果であることを示唆している。彼女は、リング(2000)による臨死経験(NDEs)の先駆的研究が、マズローの心的状態は彼独自のものではないことを示唆しているとした。すなわち、NDEの後の一貫した持続的な変化は、頻繁に、人生への高められた感謝、より大きい自己受容、他者への配慮、生命への畏敬の念、反競争、高められた精神性、死の恐怖の軽減、拡大された精神意識、知識の探究を含むが、それらはすべて、直前の心臓発作から最終的な死までのマズローの価値観の変化を特徴づけている。マズローの経験に一層強く共振するリングの結論は次の通りである。(a)NDEの価値は知恵の日常生活への翻訳から生じ、それはマズローの日常における神聖さの感覚と対応する。(b)重要な変化はいつもギフトを受け取るような単純なこととは限らない。むしろ、作業はその包みを開けることに巻き込まれる。それは、「プラトー経験が達成され、学ばれ、[そして]ハードワークによって身につく」というマズローの確信に沿う。彼のプラトー経験で、高揚した脆弱性、はかなさ、尊さ、不思議さ、および無常感とともに、彼の生と死は不可分のものになった。
  (p.48)

 マズローのプラトー経験の探究は健康の制約もあって未完で、彼は次世代以降に探究の継続を期待した。しかしそれはかなわず探究は停滞した。ただ彼が躊躇した他の理由もあったようだ。Gruel(2015)は記している。

 プラトー経験の個人的な重要性にもかかわらず、マズローはその現象の包括的な研究に従事しなかった。その理由の一部は彼の弱った身体的条件のためであるが、また、神秘主義に関連づけられるようになった快楽主義的な1960年代の“ドラッグとヒッピー”のアメリカ的時代精神への彼の嫌悪のためでもあった。もし彼が後の思考を精緻化し続けていたら、人格に関する新しい一般的な理論が出現していたかもしれない。一方で、時代精神は今でもあまり成熟していない。今日の精神的物質主義、精神的迂回・回避、ニューエイジの原理主義、ファーストフードの精神性、および日々のニュースでの宗教的暴力はおそらく墓の中でマズローを悶えさせているだろう。自己超越の肯定的と否定的な極を理解する差し迫った必要性が育っているのである。
 フェレール(2002)は、マズローの初期の考えが重要な役割を演じている西洋トランスパーソナル心理学における経験的プロセスおよびピーク状態の強調は、適切な準備、成熟、および昔からずっと続く(東西文化の:奥補足)精神的伝統が通常提供する倫理的な足場(scaffolding)をしばしば無視してきたことを指摘している。その結果、流行の一過性の経験(ピーク経験:奥補足)が長期的な変容・転換(プラトー経験:奥補足)を侵害した。それは、おそらく今日も続いている欲求である。ラム・ダス(2014)が示唆するように、精神的現象に夢中になることは、しばしば、“あまりにもおいしすぎて”真の精神的自由の日常性に直面して、それから自分自身を切り離すことができない状態になる。それゆえ、おそらくプラトー経験に向かって方向転換することは、健全な治療法、つまり良い状態にとどまることの約束を提供することになるだろう。  (p.46)

 内容的に、ピーク経験とプラトー経験はかなり重なるが、前者は情動的喚起が強く非日常的で一過性の経験なのに対して、後者は日常性と結びつき穏やかで持続する経験だということである。

 マズローは最晩年の(死すべき運命に直面する中での)プラトー経験で、日常生活の平凡さの中に非凡な何かを継続的に経験する、つまりプラトー経験する人間の能力を見出した。その洞察は、東西の精神性の思想・実践の伝統[2]や知恵[3]や臨死経験の研究などとも共鳴しあうものであり、世界の中での“私たち、生きとし生けるものみんな”のwell-beingを考え、それに一歩ずつ着実に近づくための手がかりを与えてくれるだろう。実際、多様な精神的伝統は、それぞれ高みに近づくための具体的“足場”の例を持っている。マズローの危惧した1960年代と同様、現在も、短絡的・熱狂的なピーク経験の追求がプラトー経験の実現を阻害する危険性がある。今も“自己超越の肯定的と否定的な極[4]を理解する差し迫った必要性”があるのである。

 宗教的暴力・テロも“自己超越の否定的な極”に関係し、欠乏欲求段階の欲求充足や何らかの防衛的対処にも関係するだろうが、十分な科学的解明がなされていない。ドラッグ文化も深刻だ。ポジティブ心理学やマインドフルネスのブームも微妙なところがある。自己実現・超越の解明とその実現への実践は、実証科学と疑似科学や快楽主義・商業主義―無神論者のマズローにとっては既成宗教も、か―との境界を進むアクロバティックな綱渡りと言えるかもしれない[5]

マズローの“自己”とは何か?

 前の論考で触れたように、彼の研究者としての形成過程で、博士論文の指導者は、ウィスコンシン大に赴任したばかりの、彼とあまり年齢の離れていない若きハリー・ハーローであり、彼のもとで“愛”あるいは“愛着”の(動物)研究を行った。その後、行動主義の大御所ソーンダイク(コロンビア大)のもとでポスドクを過ごし、そこでナチスの脅威下、大量に亡命してきたユダヤ系の卓越した研究者たちとの出会いがあった。世界の心理学系の最先端の人々(精神分析やゲシュタルト心理学者)と出会い、また有機体論指向の神経学者・精神科医であったクルト・ゴールドスタイン(1878-1965)とも出会った(“Toward a Psychology of Being”(1962)は彼に捧げられている)。そしてそのような親密な同僚の中でも、彼がとくに敬愛し学んだのは「生産的思考」のマックス・ヴェルトハイマー(ゲシュタルト心理学者)と文化人類学者のルース・ベネディクト(米国政府から日本占領方針作成のための日本理解の基礎研究を依頼され、それを元に「菊と刀」を書いた)であった。また、前論考の注[12]に紹介したインタビューでの発言のように、彼の思考の根源にアリストテレスがいて、さらに彼が、ベルグソン(創造的進化の提唱者)やホワイトヘッド(有機体&プロセス哲学の創始者)にも連なっている(仲間・同志である)と感じていたらしいことが示唆されている。このようなことから、彼は有機体論・全体論・進化過程論的指向があり、また文化の違いにも敏感であったことが推測される。

 マズローは、自己実現(self-actualization)という構成概念を、ゴールドスタインから借用した(なお彼はJournal of Humanistic Psychologyの創設編集委員会メンバーでもあったらしい)。ゴールドスタインの自己実現は、もともと、すべての有機体(organism:生命を有する組織体の総称)の特徴を表している生物学的傾向を説明するために使用されていた。Whitehead(2017)によると、ゴールドスタインの自己実現概念は次の3つの公理の上に構築されていた[6]。すなわち、

 (1)生成の不変構造:自己実現とは個性化(individuation)のプロセスであり、変動する環境の中での、安定した自己(不変構造)の出現であること

 (2)ホーリズム(全体論):有機体-環境の関係全体と意味。自己実現は全体(論)的(holistically)に観察されなければならないこと、すなわち、有機体(organism)と環境の全体を考慮しなければならないこと

 (3)自己実現という唯一の根本動因・動機づけ:自己実現は有機体の唯一の駆動力であること、すなわち、すべての行動は自己実現の観点から理解することができること(自己保存は病的現象)

である。ゴールドスタインは、W.キャノンの“ホメオスタシス(生体恒常性)”概念の人間を含めた発展として自己実現を考え、動物事例はもちろん、脳障害者や、場合によっては脳障害者以外の人の例を通して明確化した。

マズローの“自己実現”は、ゴールドスタインの有機体的全体論に基づくのであって、またベルタランフィの一般システム論を若い時に学んだことから推測しても、特定のシステムレベルの有機体(生命体)に注目した場合の不変構造はすべて“自己”のはずで、その不変構造の実現過程、あるいはその根本動因・動機づけが“自己実現(過程)”であった。

 彼は、階層化された有機体のシステムレベルをイメージしていて、また平和の人間科学を構築するために、有機体としての個人の人格レベルに焦点を当てていたのであろう。もし諸個人が有機的な関係性のネットワークを形成できるなら、諸個人から成る、諸個人を超えた上位レベルの(集団・社会的)有機体が形成されるだろう。それは、個人にとっては超個であるが、当該集団組織というレベルで見れば、その上位有機体の自己実現でもある。それが諸有機体実現の過程であるし、その根本駆動力が“自己実現”(人間個人レベルで言えば衝動・動機づけ)だというのである。マズローも、“超個”は新しい(1ランク上の)“自己≒有機体”の形成だとイメージしていたに違いない。だから1960年代の“ドラッグやヒッピーの文化”に嫌悪感を示していたのであろう(前述)。自己実現は意識的・熱狂的に目指すべきゴールではなく、その過程や動機づけは有機体の本性なのである。同様に、超個も有機体の本性なのである。両者は同じ(“自己実現”という有機体本性の)駆動力の現れで、それを誰―どの有機体レベルの誰が観測主体か―が、いつ・何―過程のどの時点でどの事象―に注目して語るかに依存して異なる名辞(記号)になりうると言うだけである(名辞は現象理解を誤らせる危険性がある)[7]。マズローは、人間の可能性を自己実現の過程として捉え、自分の人生をかけて、その可能性を実経験として自己確認しつつ、古今東西の精神的伝統とも照らし合わせながら解明しようとしたのであろう。

これはあながち荒唐無稽な話ではない。ゴールドスタインの思想は、現代では、生物記号学(biosemiotics)として、物質から種々の有機体(生命体)の進化メカニズムを説明する科学研究・思想に展開しつつある。そこでは、物理科学は新たな、生物・生命体(有機体)科学の一部(物質的基礎)になる。有機体の進化・組織化とその解明には情報・記号過程(因果論の他に記号論)が必須になったのである。

このように科学の先端では、世俗的な世界観とは大いに異なる(証拠に基づく合理的な)世界観が生まれつつある。このような世界観が共有され、生物や自然まで我々の仲間だと“自明さをもって思念・信念”できるようになれば、我々の行動様式(文化)も変わり、SDGs達成の期待も高まるだろう。今はこれを詳述する余裕も能力もないが、機会があれば検討したい[8]

マズローの贈り物:人間と生きとし生けるものの社会の可能性を考えるということ

 さてもう一つ。こうやってマズローの思考・探究の展開を辿ってみると、自分自身の人生経験の質的変化を内省し、それと自己実現・超越者と評価できる人の情報(伝記・著作等)や古今東西の精神的伝統の知見と突き合わせつつ吟味し、自己の人生経験を普遍化し、成人の人間発達(adult development)の可能性を探究していたとも言える。その点で、成人発達理論や生涯発達心理学の研究展開などとの比較検討も重要になってくるかもしれない。すでに一部、そのような研究もある。それを簡単に紹介する。

 D’Souzaら(2016)は、マズローの欲求階層説を、ヒンドゥー教の人生段階説(四住期:学生期, 家住期, 林住期, 遊行期)、フロイトやエリクソンの発達段階説、人間進歩の古代ユダヤ教伝統、コールバーグの道徳的発達段階説などと比較し、その相関を明らかにしている。ここでは、臨床的経験・研究に基づくエリクソンの心理-社会的発達段階説(ライフサイクル論)との関連を説明している部分を引用しよう[9]

 エリクソンの心理社会的な人間発達段階説は個人のライフサイクルの8つの段階を述べる。各段階と関連づけられる基本的な美徳(virtues)は希望、意志、目的、能力、忠誠、愛、配慮および知恵である。人生の最初の40年の間に起こる最初の6つの段階(希望、意志、目的、能力、忠誠、愛)は、自己利益と満足の方に向けられている。最後の2つの段階は、社会と利他主義に焦点を当てている。エリクソンは、子供たちが愛に満ちた、思いやりのある、自由な環境で育てられたならば、彼らは愛に満ちた、思いやりのある、自由な大人に成長するだろうと主張した。人生の最後の2つの段階では、彼らは自分自身の外の原因に焦点を当てる傾向があり、非常に生成的であろう。自己利益からの無私への転換を強調することで、エリクソンの理論は、人生の概念のヒンドゥー教の段階のように、自己実現のマズロー理論と相関する。  (p.5)

 エリクソンの発達段階説は、標準的な各発達段階固有の発達課題(危機)の解決に成功するか失敗するかで分岐発展していく。引用部分の“美徳”は発達課題の解決に成功した場合に形成・獲得される人格的特質(価値)である。最初の“希望”は「基本的信頼」という発達課題を解決・達成できた場合の価値である。これはボウルビイらの愛着(安定愛着)の形成にほぼ対応する。か弱い幼子の、愛し世話(care)してくれる親密な存在への確信が自己や他者、そして世界への信頼と“希望”をもたらすのである。不幸にもそのような確信が得られなければ、自己不信(低自尊心等)や他者への不信(愛・関係性の障害等)、そして世界への不信(探索行動の欠如、諸出来事への防衛的対処等)が出現するだろう。この分岐はその後の人生経験・行路を大きく左右する。ことほど左様に、エリクソンの最初の5つの発達課題の解決(美徳の獲得)の失敗はマズローの欠乏欲求に対応する。両者とも、それなりの環境に育てば、自己実現(エリクソンの“忠誠”=アイデンティティ確立)に至り、その後、人生を共にする他の一者との一体化(“愛”:二者関係のアイデンティティ確立)、さらに子どもを含む家族の一体化(“配慮”:三者関係のアイデンティ確立)が続き、それから晩年の、死と向き合い、残された日々の中で自己と親密な人びと、社会、自然・世界と折り合いをつけ、この世でやれることはやって、望むらくは安らかに死に至る“知恵”(エリクソンは“自我の統合 vs. 絶望”という発達課題の解決として示した)を獲得したい。“忠誠”以降はまさに、アイデンティティ(自己)の拡大過程であり、見方を変えれば、マズローの超個過程である。エリクソンは中年(『ガンジーの真理』)までしか厳密な検討ができなかったようであるが、“知恵”はまさにマズローの最晩年に対応するように思われる[10]

 なお、エリクソンの“美徳(virtues)”という概念は誤解を招きやすい。西平(1985)はこの点を検討し、次のように記している[11]

 ・エリクソンは次のように述べている。「精神分析家たちは、半世紀以上も、(患者から)生育史を聞き続けてくる中で、個人の一生と世代の連続の内にある強さについての“私的な”イメージを作りあげていると思う。」 エリクソンは、こうした強さの“私的な”イメージを、virtueとして取りだしたのであり、従ってこのvirtueは、臨床的態度に対して外から付け加えられた価値ではない。
 ・先の規定に立ち戻れば、virtueとは〈人を生き生きとさせる特質〉ということになる。それは、道徳的に高貴な者にのみ備わっているわけではなく、むしろ誰にとっても必要な強さである。「そこで、virtueの反意語は悪徳(vice)ではありえない。むしろ、それは弱さであり、その症状が、病気、機能障害、解体、アノミーなのである。」 それ故、エリクソンがvirtueについて問うのは次のような点である。人が心に持つ強さを失う場合“いかなるvirtueが失われる”のか。また、いかなる強さによって(“by virtue of” what strength) [中略] 生き生きした、はつらつとした生き方ができるのか。」 つまり、virtueとは、人が生き生きと生きるために必要な強さを意味していたのである。

 ところで、エリクソンは、こうしたvirtueが、人間に生得的(inborn)に備わっているという。生得的であるならば、それが人問の本性(human nature)に対して、外在的に付け加えられたものではありえない。その意味でも、virtueは、人為的に設定された道徳的徳目や美徳ではありえないのである。
 ・エリクソンは、人間の事実を観察する時、それを認めざるを得ないというのである。「発生的見地から見て、最小限、組織された社会の中で生き続ける世代相互のつながりを保障し、維持するような生得的素因を仮定する必要があると思う。」 人を生き生きさせるvirtueも、生得的素困として仮定されているのである。
 ・従って、virtueは、ある時期に学ばれ、発達させられる必要を内に含みつつ、生得的と言われていたのである。こうして、エリクソンの用語法におけるvirtueとは、人に生得的に備わる、生きるための強さであって、道徳的な徳目や美徳の意味とは明確に区別されているのである。



 エリクソンの“美徳(virtues)”は、人間発達に内在する駆動力・衝動に基づく活動の結果獲得された性格的“強さ(strength)”であり、マズローの自己実現過程の各段階での具体的現れに相当すると考えられる。いずれにしても、両者(の理論)とも、健康な人間は、環境さえ整っていれば、各発達課題を解決し、自己実現、そして自己超越に向かう人生を送る(そういう内発的駆動力=動機づけを持っている)と考えていることがわかる。そして、そのような人生発達の概念やイメージは世界の多様な文化的・精神的伝統の中にも存在していたのである。

 またBland & DeRobertis(2017)は、マズローの各欲求階層(とくに欠乏欲求段階)の説明と現代の実証研究を照らし合わせ、マズローの説明の基本的妥当性と実証研究に基づくより具体的な研究知見・成果を明らかにしている[12]。要するに、マズローの半世紀前の洞察・指摘は、その後の実証研究で基本的な部分が支持されるようになったとともに、彼の問題意識の一層の追求はますます重要なものになってきた。

 最後に、今回の注での補足まで踏まえ、マズローの欲求階層とシュワルツの価値観理論、エリクソンのライフサイクル論を比較した図表4-1を示す。


 簡単に図表4-1の比較を説明しておく。


 ①マズローは大人の人間成長(発達,進化)を考えていた。大人とは成長欲求の元、個人として自己実現した人であり、エリクソンで言えば同一性確立した人になる。

 ②欠乏欲求が支配的で、成長欲求が阻害されている人は自己実現(同一性確立)が困難であるような、各種人間的障害(disorder)に対処しなければならない。マズローでは、それらは(a)~(d)の支配的欠乏欲求段階に基づいて多様である。エリクソンでは、各発達課題(危機)の解決に失敗した場合の性格的弱み(⇔の右側特性)になる。

 ③エリクソンの同一性確立以降(上部)は、同一性の2者関係(愛)、3者関係(次世代の世話,配慮)、最後に世界(過去・現在・未来の世界)との関係への拡張というように、同一性の拡張過程になる。しかし見方を変えれば、これは関係性の拡張であり、マズローの自己超越過程と対応する。

 ④エリクソンは、マズローの(c)や(d)の欠乏欲求段階で生じうる病的な自己拡張(ナルシシズム)や集団同一化をうまく扱えなかった。(『ガンジーの真理』等で、中年以降の問題と絡めて疑似種族化ー 一種の自民族中心主義ーに注目はしたが。)

 ⑤シュワルツは人間成長・発達の理論ではないが、世界中に普遍的に存在する10の価値観を実証的に明らかにした。世界中の人々は、この10の価値観の独自の組み合わせとしての価値観を有し、それを満足するように諸行為を秩序づけ、人生を送る。要するに、この価値観は人生の基本的動機づけであり、したがってマズローの欲求階層に相当する。実際、かなり対応関係がある。

 ⑥シュワルツの博愛は自己拡張や集団同一化に近い意味であり、問題ある集団行動も含まれる。したがって、マズローの(c)の欠乏欲求段階辺りに位置づけられる。(自民族中心主義等の問題も扱えるということ)

 ⑦ただしシュワルツの価値観は円環構造([5]参照)を成しているので、図表4-1では価値観の間の2次元の親近関係が的確に表されていない点に注意が必要である。10の価値観を組み合わせて個人が独自の価値観を創造する際に、親近関係にない(両立しにくい)価値観の合成は持続可能性が低いから、問題を生じやすいだろう。たとえば、自己決定を伴わない博愛は(無自覚的に)自民族中心主義や集団対立を生じやすいだろう。

 ⑧マズローの自己超越は、普遍主義と博愛の融合したものと見なせる。認知的な普遍化(信念の内省・相対化、全体の整合性吟味・統合化)が必須ということだろう。彼のプラトー経験の記述にはそういう側面が現れていた(実存のパラドクスの超越・合一)。ただ円環構造では普遍主義と博愛は隣接し融合しやすい。内集団的博愛を客体化し相対化できれば、その普遍化・グローバル化へはあと一歩であろう。その普遍化の“足場”は、現代では宗教や神秘主義ではなく、普遍化能力を養う教育・学習だろう。

著者プロフィール

奥 正廣
専門は、社会心理学、社会工学、創造性研究。東京工業大学理学部応用物理、同大学院社会工学修士課程修了、同博士課程単位取得満期退学の後、(社)農村生活総合研究センター研究員。日本各地の地域社会調査に携わる。平成3年、東京工科大学着任。教養学環長を経て名誉教授。日本創造学会 理事長,会長等歴任。

学びとるラボ一覧