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テーマ「イキキル」③満足した生活を送るための最期のギフト

遺言でイキキル環境を整える

古代中国の五行思想では、「玄冬」「青春」「朱夏」「白秋」という人生を四季に例える言葉があります。人生の「白秋」は老齢期(高齢期)に当たります。人として穏やかな空気やたたずまいを見せ、人生の実りを楽しむ期間とされ、まだまだ楽しむべき実りがあるということです。自分らしく楽しみ、人生の境地を味わいながら生きていくのは素晴らしいことです。

もちろん、体力や健康の衰えや独り身になった時のことなど適応しなければならないことがあります。それでも、精神的かつ身体的に満足できる生活環境を確立することで対応することもできるのです。

そのヒントを与えてくれたのが行政書士の阿部惠子氏です。「遺言」というと死後のことと考えがちですが、最期まで憂いなく生きていくために遺言を活用することができるという提言をいただきました。

遺言は所有する財産等の処分を死後のために生前に言い残すものですが、自分が満足してこれからの生活を過ごすための環境を整えるというところに目を向けると、その目的や趣旨もちがったものになってきます。それはイキキルための明快な意思表示になるといってもいいかもしれません。遺言は自分だけでなく大切な人への最期のギフトだと阿部氏は述べています。

阿部氏:私は相続を専門とする行政書士として、たくさんの遺言作成に携わってきました。遺言書を作成することの意味と必要性を日々実感しています。

遺言書は、紛争なき財産承継のために作成されるものと思っている人も多いと思いますが、遺言の機能はそこだけにあるのではありません。

「今までの自分を振り返り、今後の自身の生き方を見つめなおすよい機会になった」と、遺言書を作成した人が共通していう言葉です。

 

ケース1・私のイキキルは他のイキキルにつながる

Aさんには子どもがなく、婚姻してから50年以上奥様と二人暮らしでした。ご自身が重篤な病気に罹り手術を数日後に控えたある日、「遺言をつくりたいのだが、どのように書けばよいかわからない」と相談されて、急いで遺言書作成に入りました。

Aさんは仕事に、妻は趣味の木目込み人形づくりに没頭し、夫の退職後も二人で共有する時間は少なく、決して仲のよい夫婦だと思ってはいなかったそうです。しかし、Aさんが体調の異変で病院にいき、病名を聞かされたとき、自分自身の絶望や不安とともに、なぜか自分亡き後の妻のことが心配でならなくなったそうです。妻がそれだけ近しい存在だったのかと初めてきがついたと、と語ってくれました。

公正証書遺言作成には時間が足りず、自筆で遺言書を作成することになりました。

Aさんは、兄弟とは疎遠で何十年も交流がないため、相続になって兄弟と妻が遺言の分配で揉めることのないよう「すべての財産を妻に相続させる」旨の遺言を作成しました。

子どものいない夫婦の場合、どちらかに相続が発生すると、両親もしくは兄弟が相続人となります。Aさん夫婦は高齢でしたので、すでにご両親は亡くなられていて、妻とAさんの兄弟姉妹との遺産分割となります。Aさんは妻に、自分と兄弟と財産分けの話し合いをさせたくなかったのです。Aさんの葬儀は友人数人と、妻と妻の弟夫婦だけのごく少人数で執り行われました。

妻は、夫の死のショックから体調を崩し、認知機能も日に日に減退していくように見受けられました。財産は遺言によりすべて妻に相続されましたが、夫の思いの実現には至っていません。夫は妻に財産だけを渡したかったわけではありません。今後の妻の生活の手当てをしたかったのです。

夫の想いを実現するため、妻と妻の弟の間で任意後見契約を取り交わし、将来のサポートをしてもらうことになりました。それに加え妻は遺言書と尊厳死宣言も作成し、自分の相続の準備もしました。自宅での独り暮らしが難しい妻は老人ホームに入所し、弟夫婦の訪問を楽しみに待つ生活がはじまりました。

Aさんが遺言書作成を考えたことから、妻の生涯の生活が守られることになりました。夫の遺言が妻のイキキルをサポートしたのです。

 

ケース2・毎日の生活の中での関係性を大切にする

家族構成は、高齢の夫婦と、長男、長女。夫婦と長男家族(妻・子ども2人)は同居していて、長女は嫁ぎ、夫と2人の子どもがいます。夫婦ともに遺言書を作成されました。遺言内容の打ち合わせに自宅に伺うと、皆さん笑顔で迎えてくれました。家族の仲のよさがわかります。

相続財産は「夫所有の自宅不動産と金融資産、妻も両親の相続で承継した金融資産を所有しています。夫婦のどちらが先に相続を迎えることになるかはわかりませんが、まずは夫の遺言です。皆で仲よく分けてもらえればどのようでもいいと、具体的意向は示されませんでしたが、それでは遺言書はつくれません。しばらく考え、自宅不動産は同居の長男に相続させ、金融資産を妻と2人の子どもに分けるという意向です。

それを聞いていた妻は、自宅不動産は自分が相続したいと夫に伝えました。そして妻は自身の遺言について、夫から相続した自宅を長男に譲り、預貯金は長男と長男の嫁と長女に三分の一ずつ渡すことにしたいと意向を示しました。

相続税や登記費用のことを考えると、自宅不動産は夫の相続の際、長男に渡されたほうがよい、またこの遺言内容だと長女の相続分が少なく不満を持たれるのではないか、と伝えました。

すると妻は静かに「相続税や登記費用の問題ではありません。必要なものは支払ってください。私は死ぬまで私名義のこの家で過ごしたいと思っています。預貯金についても3人に同じ割合で渡したいと思っています。私は15年間ほぼ毎日娘の家にいき、家事をし、孫たちの面倒を見てきました。その間、娘はキャリアを積み、蓄財もできました。この15年間は私から娘への生前贈与です。

これからの時間できるだけ子どもたちに面倒をかけないよう心がけようと思いますが、いつかは面倒をかけるときがやってきます。そのとき私たちの世話をしてくれるのは今までもがんばってきてくれた長男の嫁です。きっと負担をかけてしまうと思います。嫁への遺贈はその負担に報いるものです。私の中ではとても公平な分け方なのです」。

家族とともにイキキル姿がそこにあり、見事だと思いました。

 

ケース3・法制度より自分の想いを貫きたい

Cさんに知らない差出人から手紙が届きました。手紙には、あいさつの後に次のような文章がつづいていました。

「父が亡くなりました。相続手続きをするため戸籍を取り寄せたところ、あなたが相続人であることがわかりました。つきましては父の遺産について話し合いをしたいと思い連絡をさせていただきました」。

Cさんは、母親と2人暮らしで、父親の顔さえも知りませんでした。ただ、自分の出生について「認知されている」ことは聞いていました。すでに母親は他界していて、突然相続の話といわれても戸惑うばかりです。

気持ちが落ち着いてから、電話で話すと、手紙ではわからなかった、どこかしら拒絶的なニュアンスが感じ取られました。「争うつもりはない」と、相続する意思がないことを伝え、相続放棄の手続きをするため家庭裁判所に出向きました。裁判所の担当者が「本当に放棄してよろしいのですね」と二度聴き直すほどの財産額でした。言葉を交わしたことも、ましてや一度も会ったことのない顔も知らない父親の財産を相続する謂れはない、と思ったそうです。その直後に私はCさんから公正証書遺言の手続依頼を受けました。

「私が亡くなったら、私の財産は一度も会ったことのない兄弟姉妹が法定相続人となって相続されるのですね。それは避けたいと思います。母も亡くなり財産を渡す身近な親族もいません。大した金額ではありませんが、長い時間をかけコツコツ貯めた預貯金です。世の中のために有益に使って欲しいと思っています」。

そういって寄付遺贈先を記したメモを私に渡してくれました。Cさんは私利私欲のないまっすぐな人格の持ち主です。80歳を迎え、ますます元気にお過ごしです。水曜日の水泳教室、金曜日のコーラスサークル、学生時代の友人との会食も楽しんでいます。

自分にとって大切なものは何なのかを、よく理解している人のように思います。Cさんのこの潔さは、生涯彼女を支えていく生きる姿勢になるのだろうと思います。

 


遺言書作成を通して感じた3人の遺言者のそれぞれ生きる姿勢をお届けしました。遺言作成はあくまでも自身の「生きる」を考えるひとつの機会に過ぎません。年齢、性別にかかわらず、さまざまな場面でその機会は訪れると思います。多様化する社会の中で、個人のイキキル意味も形も多様化しています。人と比してどうであるかではなく、大切なのは一人ひとりが生きることを実感し、その人らしく納得した人生を歩み切ることにあるように思うのです。

自立し、誰の手も借りずにイキキル人も、たくさんの力を必要とする人も、誰もがその人らしいイキキルを実現できる、そんな社会であってほしいと切に願っています。

(月刊「社会保険誌853」より抜粋)

阿部惠子氏プロフィール

相続を専門とする行政書士。家族の有形無形の財産承継を目指す。
NPO法人相続アドバイザー協議会理事、日本相続学会会員、家庭裁判所家事調停委員(2009〜2018)、一般財団法人一柳ウェルビーイングライフ評議員

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